『随筆』言葉の限界
秋、新米が食べれる季節です。台風が間近に接近し、強風に晒され稲が倒れてしまう前に日本中の稲刈りが無事に終わりますように
ところで、稲にまみれて作業していると親世代の人達は「はしかい」という言葉を使います。「はしかい」とは稲の先にある針のような毛が身体に付着した時の感覚を表現する言葉のようです。それは、かゆいとかムズムズ、というよりはもう少し刺激が強いようなでも、痛いか?と聞かれたら、「いや大丈夫。」と答えるような感覚で体験してみると、それはまさに「はしかい。」それ以来、その状況になると「あぁ~はしかいわ~。」と自然と言いたくなります。身体が何か感じた時、ぴったりくる言葉が見つからなくてしょうがなく持っている表現の中から言葉を使うが、経験したものと言葉がぴったりではない。となんとなく感じる。もしくは、新しい語彙を手にした時「なんだ!そっちの方がぴったりじゃないか!」となり感覚を無理に自分の知りうる範囲の言葉に押し込めていた事に気づく子供達を見ていて、成長とは後者の気づきの繰り返しのように思います。しかし大人になればなる程、経験を積み語彙が増え感覚を細分化して表現出来るようになる反面、何でも言葉にする事が出来るような錯覚に陥り感覚を言葉なしに目一杯感じるという所に留まることは非常に難しくなるのかもしれません。静かな環境でセッションを受けて、ただからだの感覚を感じる事は子供に戻るようなモノなのかも知れませんね